「笠原の近現代史は、タイル産業の歴史。もともとは飯茶碗の製造をしていた窯が、タイル製造に変わっていったんです。戦後は、タイル産業が発展しました」。明治時代に建てられた三千盛の応接室で、代表取締役の水野鉄治さんは、笠原町の地場産業である窯業の歴史を実に丁寧に紹介してくれた。安土桃山時代に瀬戸の陶工が戦乱を逃れて美濃へやってきたこと、茶碗製造が盛んだった頃のこと、高度経済成長期には集団就職で人がどんどん入ってきたことなど、まるで歴史の先生みたいに、なんでも知っている。

 

 「僕は陶磁器がとても好きでアマチュアとして研究、収集をしていますが、タイルについては地元のことなのにあまり知りませんでした。」。タイルについても本を読み解いて知識を蓄えた水野さんは、乾式や湿式などの製造法まで詳しい。まちに陶壁やモザイクタイルアートがたくさんあることにも、きちんと気を配っている。

 

 「笠原神明宮の外壁には、天馬の陶壁があって。山内逸三さんという人がつくった見ごたえのあるものですよ。あと、ケーエスジーさん、つまりタイルの共同組合の建物の陶壁も好きですね。モダンでね」。水野さんは、おもむろに立ち上がって、窓から外を見せてくれる。「僕も、自分なりに使ってみたんですよ」。三千盛の製造庫は25 年ほど前の建築時、本来なら黒の平瓦でつくるナマコ壁に、知り合いの陶芸家に焼いてもらった灰釉の陶板を使用した。風情ある落ち着いた外観だが、内部は水野さんの言う、「めざす酒をつくるためにもっとも望ましい設備」が揃えられて、酒造りが進んでいる。秋口の頃で、ちょうど仕込みがはじまったばかり。隣の精米棟では、24時間精米が続いている。県下ではもう自社で精米しない蔵がほとんどだと聞いたが、ここでは常時3台がフル稼働している。

 

 三千盛は、安永年間に初代・水野鉄治が開業した造り酒屋だ。以来、鉄治の名は、代々当主が名乗る。水野さんのお父さんは次男で高吉の名だったが、長男の5 代目鐡弌さんが戦争で亡くなり、紆余曲折ののちに呼び戻されて跡を継いだという。もともとは教師だった。なるほど、と思う。それというのも、水野さんの酒造りに対する姿勢に、なんだか学術的な専門家という印象を受けたからだ。三千盛の酒は、辛口で知られる。主張し過ぎず、どんな料理とも合うように、原料処理、製麹、酵母、醗酵管理などにおいて、技術のかけ算を大切にしているという。水野さんにとって、「日本酒は化学」なのだが、食の満足度を高められてこそ、酒はその存在に価値を認められると考えている。妥協のない設備と係数管理、全工程での五感による官能的判断によって、めざす味わいを実現する。

陶板なまこ壁の蔵の主が語る、タイルのまちの変遷。

​株式会社三千盛 代表取締役 水野鉄治さん

 水野さんは、この笠原で生まれ、大学時代を除いてこのまちで暮らしている。「昔は、笠原神明宮の参道にあたる辺りが笠原の中心部で、もっとお店もあったんですよ。タイルのはり場なんかもいっぱいあったね」。3年生まで通っていた小学校の跡には、多治見市に編入されるまで町役場があった。最近、新しいまちのシンボル、モザイクタイルミュージアムが誕生した場所だ。中学・高校時代には、東濃鉄道笠原線の始発に揺られて名古屋まで通った。笠原線は昭和53 年に廃止されて、跡地は自転車歩行者専用道「陶彩の径」になっている。朝夕と、ウォーキングや散歩をする人が行き交い、愛されている場所だ。この道中の笠原川沿いにも、地域の小学生がつくったモザイクタイル作品が見られる。そう教えてくれる水野さんも、「めちゃくちゃ歩いとるよ」と言う身近な道だ。飲み会がある時には、多治見駅からここまで、陶彩の径を歩いて帰ってくるそうだ。「1時間半はかかるよ。だから、すごく健康。ほら」と、ムキムキのふくらはぎを見せてくれた。そんな健脚の水野さんから薦められた、笠原のまちを一望できるという笠原陶ヶ丘公園へ向かった。道に迷い、手前の小学校で尋ねると、「三千盛さんといえば、この笠原が誇る酒蔵ですね」と、若い先生はうれしそうに言って、公園の入り口まで案内してくれた。水野さんが子どもの頃は、河川が陶土で白く濁って、重油窯のにおいが煙突から流れてくる、陶器のまち独特の日常風景があったという。設備技術が進んだ今、高台の空気はきれいに澄み、遠くの山の頂に白い雪が見えた。

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