林を抜けて、どんどん山道へ。民家もまばらになった坂道のヘアピンカーブをくるりと回ると、「地酒蔵元 鯨波」と掲げた酒蔵が現れる。恵那醸造福岡工場は、山肌と言っていい場所にある。蔵の入り口に立つと、目の前は遠くの山と近くの山。あいだに空が広がる。すぐ下には立派な棚田としだれ梅が見える。ここで明治時代、酒蔵を営む長瀬家の当主は、山の上を流れる雲に、優雅に泳ぐ鯨の姿を見た。現在の当主で、酒造りをはじめてから7代目の長瀬裕彦さんは、当時に思いを巡らせる。「雲のカタチが、鯨に似ていたらしいんです。こんな山の中だから、海は憧れだったんでしょう」。それにしても、鯨雲ではなく、鯨波と名付けたセンスには唸ってしまう。長瀬家からは、花王の創業者である長瀬富郎も輩出した。ロマンある家系だ。

 「うちはずっと農家で、昔は庄屋みたいなことをしていたらしいです。酒造株を買い取って酒造りをはじめ、遠山藩の苗木城に酒を納めるようになったと伝わっています」。その頃、酒に銘柄というものがあったかどうかは定かでないらしいが、そんな経緯で蔵には『殿待』というブランドができた。殿様が待っていた酒。こちらもロマンがある。ちなみに、銘柄は全部で3つあり、もうひとつがいちばん古くからある「二ツ森山」だ。二ツ森山は、蔵からは方角的にうまく見えないが、頂のきれいな三角が双子のように並んだ山。酒造りで使う水は、その二ツ森山の伏流水である。裏の山奥から湧き出る水を、ホースで大きな水槽まで引っ張ってくる。水槽には、上部に砂利、下になるにつれて大きな石が順に入っていて、水はきれいにろ過される。豊かな水は、酒造りだけでなく、生活用水としても利用されてきた。いちばん高い位置に水槽があり、まずは、すぐ下の酒蔵で仕込みや洗い物に使う。次に母屋で、煮炊きなどに。最後は、さらに下にある鯉が泳ぐ池や小川へ。坂を生かして、自然水を効率よく使えるように考えられた昔ながらの構造だ。梁が見事な母屋のショップでは、湧き続ける水がタンクに溢れないようにと、蛇口から流しっぱなしになっている様子が見られる。

 手づくりを貫くこの酒蔵では、酒米を10キログラムごとに袋で小分けして洗う。1トン分だと100回やらなければならない面倒な作業だが、丁寧に洗うことで味がきれいになるという。こうした、ちいさな蔵にしかできない手間のかかる酒造りを、長瀬さんは大切にしている。この冬には、もうほとんどつくっていなかった「殿待」を仕込む予定だ。きれいな味わいの新しい殿待として復活する。「最近、苗木城の人気が高まっていると聞いて。歩いて登ると結構大変ですけど、眺めのよいところですよね」。城はもう石垣だけになり、もちろん殿様もいないが、往時の物語を酒が伝えてくれる。

山の上の空に鯨を見たロマンを、この先もずっと。

​恵那醸造株式会社 福岡工場 代表取締役 長瀬裕彦さん / 川出和希さん

 今、蔵で働くのは、奥さんと甥御さんと2人のアルバイト。長瀬さんは、一度家を出て東京で働いていたが、33 歳で戻って、あらためて酒造りを学んだ。修行が大変だったのではと尋ねると、「当時は、酒造りの時期に杜氏が来ていたので直接学べたし、いまどきは、醸造協会や杜氏組合が主催する泊りがけの研修もあるんですよ」と、苦労は見せない。そんな長瀬さんの大切な跡継ぎが、甥の川出和希さんだ。彼にとって、この蔵はおばあちゃんの家であり、お盆や年末年始に遊びに来るのが楽しみな場所だった。「そもそも酒造りには興味があったんです。それに、この家系に生まれたからこそ、できることですし。親戚を見回しても同年代の男子は僕しかいないので、いつかこうなるだろうとも思っていました」と、積極的に運命を受け入れた。電気電子工学科で学び、大手メーカーで9年働いた経験を生かして、ちょっとした作業に便利な道具を自作するなど、ひとつずつ、できることからはじめている。

 長瀬さんも、「今はまだ勉強中だけど、時間をかけて酒造りを覚えていけば自分の色が出てくる。そうしたら好きなことをやっていけばいい」と、目を細める。開蔵200年を迎えるにあたって将来のことは後継者にまかせられるという安心感ができたという。11代目から12代目へ。山の空に鯨を見た一族のロマンは、こうして受け継がれていく。

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