石積みの棚田が連なり、のどかな風景が広がる中津川市蛭川。銘酒『笠置鶴』の蔵元である大橋酒造は、100年以上に渡ってこの山あいの暮らしを見つめ続けてきた。「明治41年に初代がこの地ではじめたのは、山の資材を扱う仕事だったんです。その時代の屋号が、「ヤマ大 橋本屋商店」。だから、“𠆢”がついとるでしょ」と、酒蔵の壁に刻まれた印の由来を教えてくれたのは、5 代目蔵主の大橋豊尚さん。この蔵や酒造りの器材は、近隣の酒蔵が商いをたたむ際に初代が丸ごと引きとったもの。大橋酒造のルーツだ。母屋には、また別の歴史がある。戦国時代から続く旧家のお屋敷を3 分

の1移築して建てられた。他に2 軒の家ができたというのだから、元は相当な大きさだ。分厚い梁と十畳の続き間が先祖の暮らしぶりを伝えるこの場所は、大橋さんが子どもの頃から変わっていない。

 

 酒造りに使う水も、ずっとここの地下水を使っている。「 “みかげ地下水”と呼んでいます。蛭川は、蛭川みかげ石とか蛭川石と呼ばれる花崗岩の産地で、地盤が良いんです。この辺りの昔ながらの日本家屋の庭にはどこも蛭川石があるはずですよ。ほら、これも蛭川石」と、指された先を見ると、店内の足元にも大きな踏み石が。そういえば、ここへ来るまでの間にも石屋や石の集積場をいくつか見かけた。道端には、石のアートもちらほら。ここ大橋酒造の裏手、希少な自生木として知られるヒトツバタゴの根元にもある。

 

 以前は、目の前の通りを上がっていくと鉱山があり、この場所は働く人などで賑わう商店街だった。大橋さんが子どもの頃までは、お隣はパチンコ店などもあり、寿司屋や肉屋などの店が並んでいたという。信号のない山の街道を道しるべのように彩る樹々と蛭川石。空の先には、笠のようにきれいな三角の笠置山。大橋酒造のすぐ脇には、いつの時代も寄り添うように柏ヶ根川が流れている。昔は淵があったそうだ。「学校が終わると、そのまま川に入って家を通り越して、ずうっと上の方まで行っちゃう。秋は山へ行きゃ、柿やら栗やらおいしいものがなっとるでしょ。家に帰ってきやしない」。自然との距離が近い暮らしだ。

 通りを少し西へ歩くと、安弘見神社がある。ここで毎年4月に開催される蛭川杵振り祭りは、ちょっと見ものだ。奉納される杵振り踊りは、岐阜県の指定重要無形民俗文化財。この杵振り踊りに参加できるのは、地元出身の青年と決まっている。指でクルクルと杵を回す独特の振り付けは、付け焼刃ではできないからだ。踊りは代々伝えられ、蛭川の小学生・中学生はみんな学校で習うという。祭りの日は、地歌舞伎の芝居小屋「蛭子座」で衣装を整え、踊り子は赤・黄・青の市松模様の臼をかたどった大きな笠をかぶって鬼や獅子舞、

変わるものと変わらないもの。山あいの営みと酒造りの気概。

​有限会社大橋酒造 蔵主 大橋豊尚さん

太鼓などとともに中心街を出発。2キロの道中を練り歩く。途中で数回の休みを挟むのが通常で、大橋酒造も休憩地のひとつだ。

 

 「昔は何もなかったから、祭りは楽しみでしたよ。食べ物だって、山のご馳走と言えば、ヘボやツグミでした。今はもう猟が禁止されていますが、親父の時代までは、おいしいものが手に入ったから酒を飲もうやと集まったものです」。山あいの暮らしで、いちばん大きく変わったのは食文化なのかもしれない。時代とともに地域の文化が途絶えていくことを、大橋さんは心配している。

 

 「日本人は日本のいいところを捨ててばかりでしょう。伝承もなくなってきている。だからね、日本酒なんて言い方を私はしません。わざわざ日本と断らなくても酒は酒。酒か清酒としか呼ばない。それが、酒をつくる者としての気概です」。せめて自分はこの地で酒造りを実直に守っていくと語る大橋さんに、なんでもコツコツ真面目にやり遂げるという蛭川の土地柄そのものを見た。

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